ゆっくり早く

ゆっくり早くエッセイを執筆します。どうか長い目でよろしくお願いします。読者登録されると励みになります。星もうれしいです。まだ慣れてません。

真善美

真善美

認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。人間の理想としての普遍妥当な価値をいう。https://kotobank.jp/word/真善美-538151
 
前回予告した通り今回は真善美
これは
「話を3分にまとめなさい」
と言う本に書いて合ったこと。
 
要はコミニケーションに置いて重要なのは真善美だと言うことだ。
自分なりの解釈を書いていこう。
 
まず認識上の真
つまり五感で受け取った物事を
どのレベルで認識するかだと思う。
 
先日某会社の社長と話した内容
 
私「人間の色眼鏡、意図的に掛けたり外したりできたら一番いいですよね。今日はパーティーだから情熱的にいきたい、だからレッド。今日は冷静に行きたいだからブルー。ハッピーになりたい。イエロー。まあ色眼鏡って偏見とか先入観って意味だからちょっとピント合ってないですけどね。眼鏡だけに。」
 
社長「君の言ってることはようわからんけど、認識する上で色眼鏡は真ではないわな」
 
これが認識上の真。
 
ただ思うのは認識のレベルが1だとしてもそれをあげて3から5にして行く必要があると思う。
理由は5月のブログで。
 
倫理上の善
私が最近思う事
倫理観は正直低いし倫理感を必要とした世界でのし上がって行くつもりもないのでこれについてはあまり皆様の参考にはならない、それに4/24(厳密には4/25)日にも書いた通り人に道徳観を教えるのは教師だったり親だったり仙人のする事だから人が人に功徳を積めだの道徳観を持てだのって烏滸がましい。それに簡単に善について語るにはまだ私には力量がない。でも言えるのは人との相互協力の必要性とそれに伴う深い部分の心のパーソナルスペースには
踏み込まない。これは言えると思う。行動分析学的観点んで言うなら強化し合う関係、アドラー心理学的に言うなら自分を守る。倫理観、、人を守り、人を傷つけない。これでいいのかな?
 
大好きなフレーズ美
 
私的解釈だが審美上の美は見極め力。
 
簡単に言うなら何が美しくて何が美しくないか判断すると言うこと。でもそこには深い懐疑心がないといけない。これは真に美しいかと言う問い。審判の「審」だからジャッジ。ここは時間をかける人もいる何時間も同じ絵の前に立ち尽くす人。何を見てるんだろう。構図?配色?これも建築の社長と話した話。
 
私「美術館とか行かれますか?」
建築の社長「行くで、磨かんとセンス錆びるからな」
私「何を見ます?」
建「画家が何考えてるかだな」
私「(?)」
 
美を相手に絵画を相手に画家が何を考えてるのかなんて必要かな?
だってセンスを磨きたいわけでしょ?トーク力でもマインドハッキングでもコントロールでもないわけでしょ?画家は自分の頭の中を見せたいと言うよりもキャンパスに自分の芸術性を表現してるわけでしょ?頭なんてフランスパンと女とパトロンだって。それよりも色彩感覚だったり構図だったりもっと言えば絵なんてほっといて自分のインスピレーションに注意を向けたほうがよっぽど生産的な気がする。だってインスピレーションの多さがセンスにも繋がると思うし。
 
愛を持って相手の言ったことを全部受け止める。
プラス倍考えてあげる
 
これを心がけてる
 
真剣に理解しようとしている
悪意はない
 
これも心がけよう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ねえ?まとまった?

始まりは穏やかに?

「功徳を積めばいいんだよ」

寺ですれ違わさせていただいた初老は言った。

私は少し訝しんだ。

「功徳?」 

「その行為の中に功徳はあるのか?」 

非常に私的な見解だし自分が偉いだなんて思ってない。(少し思ってる)

でも偉いとか偉くないとかは主観だし良いと思う。私がどう思おうが人に迷惑をかけなければ宇宙を支配してるだの世界は私のものだのを思う存分考えてもいいと思う。内包的であるうちは。

 

論点はそこじゃない。人が人に「功徳を積めばいい」というおぞましいほどの傲慢さについて言いたい。私も成長して髭が伸びて髪が薄くなるころそういってる可能性はあるかもしれない。だって未来は不確定だから。だから面白いから。でもそれも論点と違う。

 

話の筋はこうだ。

 

私は賽銭箱に幾ばくかの金を入れた。そして真言を唱えつつ如来像を右回りに一周した。そしていつも通りに如来像の下に鎮座されているお坊さんたちの中でも好きなフォルムで好きな目をして好きな服を着て好きな雰囲気のお殿様の上に金を置いた。

 

今、私は心が狭いのかなって思ったけど正義の線引きの仕方の主張をブログの第一回で行うのも悪くないと思いなおす。今。

 

そして合掌した。「南無大師遍照金剛」

すると後ろを歩いていた初老の男性がその金を拾った。お殿様のひざ元から。

 

お殿様はたくさんのお坊さんのなかに鎮座してる。お姫様と一緒に。

 

私としては出家はできないけれどもお殿様に敬意と尊敬の念を込めて金を置いた。お坊さんが後で(本当にお寺で修行してらっしゃる)回収するとも思うし。

私は真言宗、つまり寺に宗教的にどっぷりつかってるわけでないしクリスマスだって祝うしキリストも素晴らしいと思うし靖国神社も好きだ。というか神秘的なものは基本的に好きだ。また論点がずれた。

 

結論から話そう。

「人の置いた金を自分の私情をもってして移動させ賽銭箱に入れてその上その行為を功徳を積んだ人間の行うことだから習った方がいいよと言って自分を正当化してなおかつ自分が功徳を積んだ人間だなんて言っていいのか。」

 

これだ!

 

いいんだよ別に何しようが何考えようが。

人の精神的な領域に入ってこなきゃ。

 

でもさ

初対面で

金が絡んでて

且つ徳ときたら、、話は変わってきますよ。

 

まず心のパーソナルスペースを守ってない=徳がない

置いてある金を移動させてる間自分の所有物として扱った=泥棒=徳がない

見ず知らずの人間に自分の行った行為を正当化させるために徳という言葉で一連の行為を片付けた=人格が疑われる=徳がない

 

悪口じゃない。悪口いうやつは最低。

これは意見でブログで主張。若者の主張。

 

人間社長だろうが会長だろうが理事長だろうが大統領だろうがIQが高かろうが年を取っていようが幼子だろうが関係ないと思う。徳に関して言えば。

 

正義は自分の良心に掛かってくると思うんだけど、自分の中にどれだけ多くの見識があるかに掛かってくると思うんだよね。引き出しの広さ?

 

その初老の男性は要は功徳を積むという単語にたどり着いたんだと思う。

苦労も快楽ももちろん功徳も積んだと思う。

 

でも浅い。

 

功徳が何か分かってない。

そんな簡単に人に功徳を積めなんて言えない。

 

自分の引き出しを全部開けて見せてそしてそのうえで

「私はこんな経験をしました。そしてこんな悟りを得ました。これが答えかどうかはあなたの判断です。しかし功徳は積むべきですよ。人生のためにね」

 

くらい言ってほしかった。無理だけど。

 

無理だから(簡単に無理っていうのも嫌いだけど)

功徳を積まなきゃならないんじゃない?

 

功徳を積むのは人のため?自分のため?仏様の教えだから?

 

人はなぜ祈る?なぜ言葉を紡ぐ?

 

自分が安心したいからでしょ?

 

自分が第一なのは正しい。でも正義じゃない。

 

真っ白じゃ汚れちまうぜ?

汚れも含めての白って思えたら一つ悟ったことになるけど。

 

正義って何だろう。

 

真善美ならわかるんだけどな、、。(次回!真善美)

 

読んでくれてありがとうございました。継続継続。