自分がいつか死ぬことに気づいた日。
ということに意識を置くのは二流だということがわかった。
というのもとにかく創作をしていかなくてはいけないし、
言葉を作るような方向は難しいというより、
その言葉の流布まで考えていたかということに気づいた。
言葉を芸術と置き換えられるほどの技術が欲しいばかりであるが、
鍛錬はこれからである。
流布は流すことだが最上級の布を意図もなしに織ることはできないし、
それが最上級だとしてもそのことに専念する間にペーズリーは流れゆくということだ。
このように意味深で芸術を履き違えた自分が憎い。
ひどい落ち込みから友人の力を借りてひともずもちなおしたし、
というより長い友人であり又あり続けるであろう彼と、
よそ見している僕の年の差以上の遍歴を感じて、
他覚による自覚の不確かさを思い知った。
コーヒーの例がとても印象的であった。
彼はぎょうかいのにんげんで自分ができると思い込んでいるラインが、
自分がコーヒーについて精通したコーヒーバリスタであるというラインが甘かったといった。
その人間がコーヒーについて語るラインで、
そのラインを超えている人間はゆうにごまんといるし、
自分はまだ種類を知りきっていないという。
そして僕が先程言った他覚による自覚の不確かさとはこのことで、
僕は少し格好つけて一杯のコーヒーでコーヒーについて知りたいし完全に知りたいと言った。
愚かな大学中退の無様な死に様である。
これはおそらく二対の物体として思考する人間美しさの表現として的確だとおもうのだが、
文化についてというよりもおそらく学術的な嗜好の違いではないかとおもう。
彼の実験社会学的な見地と僕の実践哲学的な見地とというのは、
社会と個人という二対の構造ではないかと思うのだ。
これ以上の考察は必要か不必要かの審判は下すべきだろう。
それは立場の違いと言えば愚かであり、
僕が思うに必死さであると思う。
必ず死ぬ上で死ぬことの自覚である。
今の生きるこの瞬間の温度である
彼の言葉で印象的だったのは「温度」である。
要は熱量である。
物質の持つ質量である。
彼はいささか太りすぎていた。
というのは余談である。
言葉に対する概念の共通性や音楽に対するバイブスはある種の一致を見せたが
今考えれば彼の技量によって僕を引き上げたということだと思う。
僕があげられたものといえばなんだろう。
寝起きのジャスミン茶ではないか。
それだけじゃ悔しいし、それは彼の金で買ったものだ。
素直に文章を書く勇気をくれた彼の、
ステージ上での振る舞いを見る機会がほどなく訪れるが、
その時は斜に構えず大声で声援を送ろうと思う。
そんな夢を見ながら。
しかし朝の弱い人間のあと五分の終わりない連続を受け入れる寛容な愛情と引き換えに
私は長い帰路についている。
そのおかげで僕は点滴のような文章が書きたいと思った。
これが結論で、僕の価値観だ。