待つ人に思われることについて
思う側は簡単だがこの時の「主体性を自分自身に置く」のは「主体性」という言葉から考えると簡単である。
前回私がギターを練習しなかった理由はそのギターを練習する前に私がこれを書いているからである。
というのも、この文章を書くことによって不可解な自分自身を作らないと作詞家というものはやってられないからである。ということで決めたことがある。私は彼にこの文章を送ることにしよう。そう言った意味で私はラブレターを書くと同時に作詞家としてやっていきたいという自分を彼に売り込むことができるのである。一筆二鳥である。
待ち人来ずというのも不可解である。
待つことでくると思われているのであろうが、待ち人は来ない。
君と待ち合わせていたのは過去なのに過去がやってくるなんてありえるか。
というか君そもそももう僕より オ シ ャ レ 。
tap to my rhythm with emotion.
君の音で僕を 逝かせて。